ひょうたんの葉のかげにくるりとマユをつくって羽化を待つだれかを見つけました。
多分、この種類の植物によってくる蛾で、『害虫』と呼ばれるだれかなのでしょうが黙認していました。なぜなら、このイモムシはなんともお行儀よく1枚ずつ葉をたいらげ、芯を食って枯らすようなことをしなかったからです。
サナギでいる状態というのは、本当に神秘的だなと思います。そんな時、魂は一体どうしているのでしょうね。
美しい絹織物を作る生糸をつむぐには、サナギになった蚕を釜茹でにして命を奪わなくてはならないのだ、と子どもの頃に聞いた時のショックは忘れられません。
それを聞いたのは確か小学2年か3年頃。ちょうど、アゲハ蝶の幼虫を自宅で育てるのが楽しくて、夜明けに羽化する瞬間まで見届けていた時期でした。
(現在の私は、ちょっとあの不気味な青虫と触れ合うのは出来れば避けたい気分です…。)
大人になって、あるテレビ番組でブータンの養蚕農家を取材した一場面を見ました。
その農家では、蚕の命を奪わず、マユをやぶって羽化する蚕蛾が去ってから糸をつむぐそうです。破られたマユはあちこち分断された糸しかつむげませんから、滑らかな美しい絹織物にはならないそうですが、『ブラ』とよばれるそれらの絹布は味のある凹凸で素敵でした。
インターネットで蚕・絹などの言語で検索してみると、
『自分で育てた蚕の幼虫がさなぎになり、蚕を殺すのはかわいそうだと子どもが言いますが、何かいい方法はないでしょうか』
という内容の質問がのっていました。
蚕の命をたくさん犠牲にした上で絹糸が出来るという現実を、子どもに伝えなくてはなりませんが、同時に「滑らかな布じゃなくても、蚕が死なないのならこっちでいいか!」という人がいることも教えてあげたなら、幼い頃の私のような衝撃は少し和らぐかもしれません。
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